壺中天有(こちゅうてんあり)について。
ちょっと硬い話で恐縮ですが、陽明学者で思想家の安岡正篤(1898年(明治31年)−1983年(昭和58年)の六中観の中の言葉です。
六中観は以下の6つからなっています。
- 一、忙中閑あり 「ただの閑は退屈でしかない。ただの忙は文字通り心を亡ぼすばかりである。真の閑は忙中にある。忙中に閑あって始めて生きる」
- 二、苦中楽あり 「いかなる苦にも楽がある。貧といえども苦しいばかりではない。貧は貧なりに楽もある」
- 三、死中活あり 「死地に入って活路が開け、全身全霊をうちこんでこそ何ものかを永遠に残すのである。のらくらと五十年七十年を送って何の生ぞや」
- 四、壷中天あり 「世俗生活の中にある独自の別天地をいう」 (後漢書)
- 五、意中人あり 「常に心の中に人物を持つ。或いは私淑する偉人を、また要路に推薦し得る人材をここというように、あらゆる場合の人材の用意」
- 六、腹中書あり 「目にとめたとか、頭の中のかすような知識ではなく、 腹の中に納まっておる哲学のことである
引用ここまで
安岡正篤は常にこの六中観を胸に、激動の時代を走り続けてたといいます。 このブログのタイトルに、六中観の中から、四、壷中天あり 「世俗生活の中にある独自の別天地をいう」をタイトルにしました。
私も日々、忙殺されてしまいそうになりますが、多忙の中で何かキラリと光ることに出会った時なんとも楽しく、幸せな気分になります。
私は一つの趣味に没頭するよりも、広く浅く興味があるほうなので、多ジャンルで良いと思ったことを書き留め、自分の経験を積み重ね、これらをを記録しながら、皆様にご紹介できればと思っております。